iPad/iPhoneがFlashを実装できないのを実感

技術的根拠がないことをまず最初に断っておきますね。でも、間違いなく実感しております。

このブログに「imac 改造」というキーワードで訪れる人も結構いるようです。確かに改造しましたし、実際に不都合なく運用しています。当初の予定通りに入っていませんが、予算の問題でして…SSD高いんだもん。もうちょっと落ち着いたら購入してみようかなと思っております。會澤のiMacは、内蔵しているHDDを取り出し外付けにして使っています。SATAを延長してスタンド裏の吸気口スリットからコネクタを引き出して(一部スリットを切断)、HDDを別電源で稼働させています。HDDはマックの中でおそらくもっとも故障のリスクが高い部材です。元もと消耗品ですからね。過去購入から1年1ヶ月でアップル・ピックアップデリバリーでHDD交換を経験した會澤としては、Time Machineがあるからといっても安心できません。データはピックアップできても、個人でiMacを分解するにはかなりリスクを伴いますから、おいそれと交換とはいきません。ならば、外付けで運用してしまえ。というのも、ひとつの考え方だったわけです。

蛇足ついでに、同じことを考えている方に忠告!外したHDDスペースには、なんらかの詰め物をするなり、ダミーのケースを入れるなりした方がよろしいと思います。これは、會澤も想定していなかったことなので、施工を依頼したスピリカ様の問題はないです。

HDD空間を空けたままにしておくと、内蔵されたCPUファンの動作音が空間内に共鳴して結果大きな音になります。(CPUファンと断定はできませんが、HDDファンの温度センサーは、筐体裏側に接着して頂いているそうですので、そこの温度が必要以上に上がることは考えられません。最近のiMacはメーカー非公開のコネクタで温度管理をしているようですので、その点もご注意下さい<参考>以下サンプル音を提示します。クリックで自動再生されますので、音量にご注意下さい(元々の音量は小さいので逆に音量を上げないと聞こえないかも知れません)

ここから本題

前置き長いよね。

さて、iPad/iPhoneは現在のところ、Flashをサポートしません。その理由がこの環境になって分かった様な気がします。というのも、Flashを多用したWebページを閲覧するとすぐに高負荷のファン音になるのです。Activity Monitorで見ている以上にCPUファンの駆動音が上がります。

CPUファンは温度センサーで管理されているはずですし、温度センサーはCPUの温度を(ソフト的になのか実際温度なのかは不明ですが)センシングしているはずです。温度が上がるのは、CPUが高負荷になる場合ですし、それはすなわち電力をたくさん使っているということの表れでもあります。

アップルが<canvas>を推奨したのもその辺に理由があるのだろうなと思います。そして、バッテリーの持ちが悪くなる。というアップルの主張もあながち間違いではないだろうなという推測が成り立ちます。

あくまでも推測の域を出ませんけどね。

同日追記:音声ファイルの再生に、アップル供給のJavaScriptを使ってみたのですが、Safariではなんとか再生できますが、Opera・Firefox・Chromeいずれもダメっぽいです。原因を探ってみますが、JavaScriptを解析できるほどのスキルがあるか疑問ですので、解明可能かどうか…一応、Safariで再生できることから、JavaScript実装上の問題かなと思っているのですが、そんなライブラリ公開するかなぁというのもありまして…使えるなら常時使おうと思ってヘッダに読み込みさせているのですが、ウ〜ンどうしようか、わからん。

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小さな一歩

  • 會澤は、不眠に悩まされていた。
  • 夜中に起きる(叫んだこともあった)こともたびたびだった。
  • そのため、一緒に寝ていた妻にまで不眠状態になった。
  • 別居することにした。
  • あっ、別室で寝ることにした。廊下を挟んでいる。
  • うつ診断から約2年たって、ようやく睡眠障害は緩和されてきた。
  • 妻と同室で寝ることにした。

些細な、うれしい一歩だったりする。

tweethis

情報受発信能力と情報活用能力(その2)

情報受発信能力と情報活用能力(その1)」続きです。

(その1)では、問題点を指摘しました。(その2)では、マスメディアの影響力と取り扱い方法について書いてみたいと思います。

テレビメディアの内在する矛盾

別にこの記事を誰に読んで欲しいというものではありませんが、この部分はテレビメディアに携わる人に読んで頂きたい。

復興期、テレビジョンというのはいってみれば復興の旗印というか象徴的な存在だったと聞き及んでいます。會澤は現在(45歳:投稿日現在)ですが、白黒のテレビとカラーテレビが切り替わるのを知っている世代です。三種の神器ですか?カラーテレビは、それまでの活字・音声だけの報道を動く画像で伝えるという画期的なものになりました。だからこそ、メディアの代表格としてこれまで確固たる地位を築いてきたわけです。

ところが、残念なことに昨今のテレビメディアを會澤はあえてマスゴミと称しております。まぁ、新聞メディアもかなりゴミに近づいてきておりますし、雑誌に至っては見るべくも無しといったところです。テレビがダメになったのは、視聴率という根拠すらはっきりしないし、統計的にも意味がない(母集団を明確にしていない統計は統計と呼びません)謎の数字しか、自己評価の対象にしてこなかったということがいえます。

(その1)で発信力は増大するけど、発信能力は未整備だ。という話をしました。あらんことか、テレビメディアはまさにその状況に陥ってしまったのだろうと思います。「何を」発信していけばいいのか。メディア(あえて以後再びマスゴミ)は試行錯誤の中で「視聴者のために」の「ために」を誤解してしまった。視聴者に気に入られる「ために」テレビ番組が作られる。自分たちが戦後の混乱期に背負っていた、これからの日本を伝えていくぞ!という気概が時を経て薄らぐにつれ、経済面ばかりが重視される様になる。マスゴミ民放番組制作費は、広告収入に頼ることになりますから、スポンサーに媚を売る様な番組も制作される。スポンサーも「あたり前田のクラッカー」(ご冥福をお祈りします)にあやかろうとする。結果、「ために」がすり替わる。

公共であるにもかかわらず、資本を民間に求める。いっそのこと、中間に「スポンサー企業資本配当機構」かなんかの団体を設けて(腐敗の温床になりそうなのでダメダメだけど)特定の企業からの資金であることを中和すれば、もしかしたら変わったかも知れない。しかし、そうなっていない。結果先に出した「視聴率」などという得体の知れない化け物に支配されることになってしまった。さらに、経済不況の場面では、真っ先に削られるのが広告宣伝費と人件費。これがマスゴミを直撃した。

現在見る影もないのはご存じの通り。そして皮肉にも、あたかも文化を先導する様に今でも一定の影響力を持ち続けている。創作性を失い。2番煎じ3番煎じ。ドジョウを探すのも限界。

マスゴミが、若者をダメにしたわけでない。ダメにしたのはオトナ。オトナがダメなマスゴミを許し、面白がり、結果マスゴミが劣化する。それでも影響力を持つから、視聴者がダメになる。くり返し。止めどない。

マスゴミ再生|デジタル化で打開できるか

個人が受け取る情報は多様化して、マスゴミだけでなく、自らも発信者たり得る様になった。マスゴミを他山の石とするか否かは、自らに課せられた課題。ただ課題を「自分自身の判断基準」で判断するのは、多くの情報を得るマスゴミやインターネットから得て育ってきた世代(私なんぞが該当するのかな)は、マスゴミの報じる情報をまともに受け取ってしまう危険をはらんでいる。ファッションなんて、大きく声を上げられるところが「作っている」のが現状。「東京ガールズコレクション’10 S/S|TOKYO GIRLS COLLECTION’10 S/S」なんざ好例。しかし、それでもそれにのってしまう少女達を責めるわけにはイカンでしょうね。

デジタル化がどんどん進んで、既存の書店やCD/DVDなどが影響を受けているというのはこれまた事実。100万枚などといわれた(それも出荷ベース:出荷→返品はノーカウント)CD売り上げも、30万枚程度でトップがとれる。デジタル化を拒んでいるのではなく対応できないため。既得権益が張り巡らされているため。

デジタル化は中間搾取しやすくもあり、実は直接販売というルートも残す微妙な販路。例を挙げれば、iPhoneのアプリケーション。アプリケーションはアップルが一手に独占して販路を持っているという独禁法に触れそうなシステムながら、一度売れたアプリケーション内で、追加のオプションを作者が直接販売する余地を残すという美味しいところもある。作者にしてみれば、一度売れたアプリケーション内で、今度は直接販売するルートを確保することにもなる。

メディアも同様で、デジタル化によって既存の既得権益が影響を受けること、情報弱者の存在に目をつぶれば、作者が直接読者や、閲覧者との会話を交わすことが可能になる。この記事に反対意見を書き込むことで會澤に影響を与えることができるわけですね。日本の恥部某chも一種のメディアになってしまいましたが、あそこではしばしば「炎上」とか「祭り」がおきます。ブログでも起きることがありますね。結局、発信者が発信者たる能力を持ち得ないまま発信者になってしまっているために、それがめぐりめぐって「炎上」になり「祭り」になります。会話の基本的なルールを守っていればあんなことはなくなります。知っているにもかかわらず、匿名性の悪い面がでているわけです。

Twitterでも時に、祭りに似た状況が起きますが、Twitterでは発信者の発言履歴などがたどれるため、一定の歯止めがかかります。このブログにおいても、コメントは基本的に承認する方向ですが、いったん會澤の手元に承認可否の確認がかかります。また、行きすぎた発言を削除する権限も持ち得ています。少なくとも會澤が「自分自身の判断基準」で善悪を判断してコメントの炎上を防ぐことができます。

テレビメディアや、雑誌メディアに同じ様なことを望むのは無理でしょうか。テレビメディアは、デジタル化(方針賛成:実施反対:でも進んじゃってる)によって、双方向通信が可能になります。上手に使えば、これまで視聴率などという根拠のない数字に変わって直接意見を聞き、自己評価につなげていくことが可能になります。ところが、インターネットがこれだけ普及したにもかかわらず、既得権益にしがみついて既存の番組の配信に難色を示したり、課金してさらに追加権益を得ようとする動き。相当根が深いです。

テレビに関しては、番組に関しての掲示板を作れば、評価が直接聞けます。それを宣伝媒体程度にしか考えていないからあまり積極的に投資しないのであって、私がもしテレビ局の運営の一翼を担っているなら、番組の評価を直接広告提供元にぶつけて成功失敗の判断材料にしますけどね。視聴率などよりよほど確実な評価です。もちろんノイズが入り込むのは承知の上です。

やらないんでしょうね。やる気がないとしか思えない。

発信者としての心構え

誰も教えてくれないけれど、実はいろんな所に発信者たるべき能力の心得は転がっています。

例えば、

  • お母さんとの会話。お父さんとの会話。
  • 学校の先生との会話。
  • 友達との会話。
  • 隣の小さい頃から知っているおじさんとの会話。
  • はじめて会う人との会話。

全部、発信者として心得ておくべきスキルです。この会話にまったく違いがないというあなたは、発信者たる資格が本来ないのです。日本語は、幸いにも自分の立場・相手との距離によって使う言葉が異なるという文化を持っています。ため口・丁寧語・尊敬語・謙譲語。(ため口は学校で教えてくれないなぁ)実はみんな学校で学んでいたりします。

トラブルを避けるためには、相手の立場になれば済むことです。自分がいわれて嫌なことはいわない。自分がされて嫌なことはしない。自分の事を必要以上に詮索されたくないのなら、自分が詮索されていい範囲の情報だけを発信する。悪口をいわれない様にするためには、悪口をいわない。KY(空気読めない)なヤツといわれたくなかったら、その場の雰囲気をある程度探ってから参入する。ルールがあるなら従う。ルールに納得いかない様なところには、速攻立ち去る。

どれもこれも簡単なことです。そして全てに「自己抑制」が必用です。全てにおいて「何でもあり」の世界は、破綻します。「自分自身の判断基準」は、自分で決めて良いです。ただし野放図な自由ではありません。参加する場所のルールに従うこと。日本に住んでいるなら日本の法律に従うこと。コミュニティーを破壊しない・悪い気にさせないこと。これだけ守れば、正邪は自分で決めて良いのです。自由でしょ。本当の自由です。

オスカーは逃したようですが「アバター」の世界でも、結局コュミニケーションは存在しました。チームで戦うゲームでもコミュニケーションはあるはずです。そして、実際の世界でも。

優先順位があるんですね。その優先順位を教えてもらってない人は不幸です。日本に住んでいるなら日本の法律を遵守することが求められます(たとえ気に入らなくとも)。あるコミュニティーに参加しているならそのコミュニティーのルールを遵守することが求められます(たとえ気に入らなくとも)。友人同士の関係で、おもしろくないことがあってもその人との関係を守ろうとするなら、一歩引くことも覚えなければなりません。

難しくないし、みんなやっていること。それをそのままインターネットの世界に持ち込めばいい。匿名だからといって、日本の法律を破って良いルールは存在しない。匿名だからといって、掲示板を荒らしてはいけない。匿名だからといって相手の個人的なところを攻撃してはいけない。全部、全部、ITの世界でも同じです。リアルタイムであったり、物理的な距離感がなくなったことがITの優位性なのです。コミュニケーションに違いはありません。最先端の技術でも、喧嘩の仲裁に入って論理的になだめてくれる電子頭脳は存在しません。

またまた長くなってしまいました。次はたぶん日を改めて、情報受信者としての方向を探ってみましょうか。

tweethis

情報受発信能力と情報活用能力(その1)

小難しいタイトルでいささか恐縮ですが、今後大切になってくると思いますので、記事としておきたいと思います。

事の起こりはTwitterでのやり取りです。以下引用しますが、長くなる上、「リテラシー」という一般にはあまりなじみのない言葉に會澤がかみついたことがキッカケです。おつきあい頂いた、小林哲雄様、sugakiさま暴言や相手への敬意を欠いた物言いがあったことお詫びいたします。情報リテラシー(じょうほう – 、information literacy)とは、情報 (information)と識字 (literacy) を合わせた言葉で、情報を自己の目的に適合するように使用できる能力のことである。「情報活用能力」や「情報を使いこなす力」とも表現する。に関しての議論が中心となります。引用後、會澤の意見を述べさせて頂きます(長いんだなぁこれが…)

  • 事件や事故の関係者や目撃者が、自分でツイートすれば、その手の報道の意味は無くなる。 (@tjimbo live at http://ustre.am/caZP)
  • 真実であればというのは、性善説に立つということか。RT @Two_Brain: 事件や事故の関係者や目撃者が、自分でツイートすれば、その手の報道の意味は無くなる。
  • @Two_Brain 誤った情報は、捜査の攪乱のみならず真実の目撃者の記憶も操作せしめることは、極めて危険といわざるを得ない。
  • 違います。記者(プロ)が報じようが一般人(アマチュア)が報じようが、どのみち真実は、情報の受け手が自分で判断するしかないのです。 RT @kenichiaizawa: 真実であればというのは、性善説に立つということか。RT @Two_Brain: 事件や事故の関係者や目撃者…
  • @Two_Brain 意図的に間違った情報を流すことが可能ですが、その点については?
  • もちろんあるでしょう。と言うか今でもあります。意図的に流される間違った情報に惑わされないためには、情報リテラシーを身につける必要があります。 RT @kenichiaizawa: @Two_Brain 意図的に間違った情報を流すことが可能ですが、その点については?
  • 子供のうちから情報リテラシー教育する必要があります。情報通信技術の進歩があまりにも速いので、一時的な混乱というか、情報リテラシーデバイドの発生が予想されます。RT @kenichiaizawa: @Two_Brain 意図的に間違った情報を流すことが可能ですが、その点については?
  • 子供に「リテラシー」と言って分かるでしょうか?仰ることは理解できますが、情報というのは「誰もが分かって」こその情報。言葉も重要なポイントですね。RT @Two_Brain: 子供のうちから情報リテラシー教育する必要があります。情報通信技術の進歩があまりにも速いので、…
  • 子供に「リテラシー」と言って分かるでしょうか?仰ることは理解できますが、情報というのは「誰もが分かって」こその情報。言葉も重要なポイントですね。RT @Two_Brain: 子供のうちから情報リテラシー教育する必要があります。情報通信技術の進歩があまりにも速いので、…
  • @Two_Brain 教育というのは重要で、体験によって得られるもの。知識によって得られるもの。経験によって得られるもの多彩です。言葉を平易なものにするのは、現在小難しい言葉を使っている人たちの責任で、しないのはマスターベーションと同じと思います。
  • @Two_Brain 教育というのは重要で、体験によって得られるもの。知識によって得られるもの。経験によって得られるもの多彩です。言葉を平易なものにするのは、現在小難しい言葉を使っている人たちの責任で、しないのはマスターベーションと同じと思います。
  • 今でも誤った情報による捜査の誤誘導はあります。例:松本サリン事件、それを防ぐには、捜査当局に情報リテラシーを磨いて頂く必要があります。RT @kenichiaizawa: @Two_Brain 誤った情報は、捜査の攪乱のみならず真実の目撃者の記憶も操作せしめることは、極めて危険…
  • 情報リテラシーには、発信リテラシーと受信リテラシーの二つがあります。これからは、国民も捜査当局や裁判所を含む行政組織も、政治家も企業も学校も、社会を構成する全ての組織が両方を身につける必要があります。RT @kenichiaizawa: @Two_Brain 教育というのは重要…
  • @Two_Brain 「リテラシー」を日本語で表現して下さい。子供達には理解不能です。子供のうちから危機管理を学ばせる上で、むやみに難しい外来語をそのまま使用するのには反対です。ちょっと論点がずれているようです。私はTwo_Brainさんの意見「には」賛成です。
  • 子供にリテラシーと言っても勿論通用しないでしょう。でも先生や教育委員会、私立学校の幹部の方には理解してもらわなければなりません。 RT @kenichiaizawa:…
  • 情報リテラシーを日本語で言えば、「情報と賢くつきあうために必要な能力」でしょう。 RT @kenichiaizawa: @Two_Brain 「リテラシー」を日本語で表現して下さい。子供達には理解不能です。子供のうちから危機管理を学ばせる上で、むやみに難しい外来語をそのまま使用…
  • 情報リテラシーを日本語で言えば、「情報と賢くつきあうために必要な能力」でしょう。 RT @kenichiaizawa: @Two_Brain 「リテラシー」を日本語で表現して下さい。子供達には理解不能です。子供のうちから危機管理を学ばせる上で、むやみに難しい外来語をそのまま使用…
  • いえ、今のはググったのではなく、自分で考えました。が、まあ、言葉には一般的な定義があり、それとあまりかけ離れた意味で使うと混乱を生じますから。RT @sugaki: @Two_Brain @kenichiaizawa 「情報と賢くつきあうために必要な能力」は表現のひとつかと思い…
  • 昨晩のやり取りにおいて、會澤が?と感じたのは、情報の取捨選択能力を学習していく上で、自分で判断する為の教育。という部分です。RT @sugaki: @two_brain すんません、two_brainさんではなく、「日本語で表現してください」と言われた方に対しての言葉です
  • @sugaki @two_brain : 言葉 … から2010年3月8日に引用”>RT @sugaki @two_brain : 言葉は文化ですから、リテラシーという言葉が文化に根ざしているか?逆にいえば、情報過多の中で自分の「意志」で情報を切り捨て、取り上げる能力というのは日本の教育環境で問題になっているのか?と言うところです。
  • @sugaki @two_brain : 情報 … から2010年3月8日に引用”>RT @sugaki @two_brain : 情報化の中で発信される情報が多ければ多いほど、雑音が混入します。雑音のみを取り上げて話題をさらおうとしているのが、どうも今のマスゴミのようでならないのです。その点開かれたソースという意味でTwitterの役割は有意義。
  • @kenichiaizawa @two_brain … から2010年3月8日に引用”>@kenichiaizawa @two_brain おはようございまっす! 要するに「日本語としてわかりにくいからもっちょっと言い方変えてくれませんか?」という意味ですよね?
  • @sugaki @two_brain : 雑音 … から2010年3月8日に引用”>RT @sugaki @two_brain : 雑音を拾う・拾わないを個人の問題とくくってしまえば簡単ですが、実際にはtwo_brainさんの言う受発信リテラシーが根本から理解されていないが故に、混乱・間違いが生じてくると感じています。
  • @kenichiaizawa @two_brain … から2010年3月8日に引用”>@kenichiaizawa @two_brain 意図はわかりました。「リテラシー」に関して言えば、単に「ある分野に関する知識や活用する能力」ということですので「問題」部分とは関係ないです。一方問題になっているか、という点に関して言えば系統だった議論は行われていないと思います
  • そういうことになります。言い方ではなくむしろ定義を明確にして言葉を使っていきましょう。それがいまできる発信者側の意識になければ、意図を持って発信しても雑音になりますよ。と言うことです RT @sugaki @two_brain : 言い方変えてくれませんか?(文言のみの引用失礼)
  • @kenichiaizawa @two_brain … から2010年3月8日に引用”>@kenichiaizawa @two_brain ただ、情報の取捨選択が出来る能力は必要ではないか、とは思うし、そう言う人もいる、というのが現状かと思います。議論する能力をもっと付けた方がいいのではないか、と言われているのと同じ程度だとは思いますが
  • そうですね。認めます。言葉尻をとったといわれてもおかしくない発言でした。それこそ「リテラシー」の欠如を伴った発言でしたね。反省してます。RT @sugaki @two_brain …系統だった議論は行われていないと思います
  • まだ個人の感覚の域は出ていません。それは事実かと。でも問題意識を持つことはよいのでは? QT @kenichiaizawa: RT @two_brain …実際にはtwo_brainさんの言う受発信リテラシーが根本から理解されていないが故に、混乱・間違いが生じてくると感じています
  • @sugaki @two_brain 教育の … から2010年3月8日に引用”>RT: @sugaki @two_brain 教育の関係者が入ってきてくれると良いのですが、自由という定義自体「憲法の下で」であるはずなのですが、それすら逸脱した考えで自由を定義している人がいらっしゃる。根幹として教育の問題(指導要綱)かな。
  • もちろん現状での問題意識は発信者側受信者側双方に必要と感じています。提起という意味でのtweetであったなら素晴らしい。で多分そうなんでしょう。RT @sugaki @two_brain : まだ個人の感覚の域は出ていません。それは事実かと。でも問題意識を持つことはよいのでは?
  • 結果的にtwo_brainさんの言葉に過剰反応してしまったわけです。それは事実ですし私自身反省すべき点かと。RT: @sugaki @two_brain
  • @kenichiaizawa @two_brain … から2010年3月8日に引用”>@kenichiaizawa @two_brain 個人的には、ツイッタや新聞、TVなどの情報を数多く突き合わせることで身につくんだと思います。単純な鉄則としては「とある情報に対して」、「嘘を書くかも知れない」「多様な見方がある」「背景や構造を推し量れ」と徹底することではないかと
  • (スミマセンさらに続けます)これから情報過多の海になんのリテラシーも持たない若者が船をこぎ出すことを考えると、ゾッとします。事実、すでに多くの問題が出ているわけです。RT: @sugaki @two_brain
  • 仰るとおりです。情報ソースの取り扱いは、複数のソースの突き合わせから矛盾点・合致点を見いだすことでしか得られないと思います。RT: @sugaki @two_brain
  • 某chのように意図的にノイズを増幅させて真実が埋もれてしまうようなものは危険だと。そして、マスゴミがTwitterを取り上げ始めた時点で、まずいなと思っているのです。マスゴミが情報収集を自分ではなく、他のメディアに依存する。怖い。RT: @sugaki @two_brain
  • テレビというマスゴミが、新聞を広げてそれを読む。という手法で番組を構成し始めたときには、比較することができて便利かと一瞬思いましたが、マスゴミが自分で情報を収集することを放棄したのではないかと感じたとき、危機感を覚えました。RT: @sugaki @two_brain
  • いったん離席します。ちょっと自分でも整理し、自ブログに上げます。Twitterの文字制限は、こういう時にきつい。RT: @sugaki @two_brain
  • これはほんとにそう思います。会話技術、議論技術と同様に、早い時期に身につけるべき技術だと思ってます QT @kenichiaizawa: これから情報過多の海になんのリテラシーも持たない若者が船をこぎ出すことを考えると、ゾッとします RT @two_brain
  • その気持ちはわかります(笑) QT @kenichiaizawa: いったん離席します。ちょっと自分でも整理し、自ブログに上げます。Twitterの文字制限は、こういう時にきつい。RT: @sugaki @two_brain
  • 私の認識では「情報リテラシー」という言葉は、以前は會澤さんの言う「情報の取捨選択能力」つまり「受信能力」のことを指していた、つまり「メディアリテラシー」ですね。しかしインターネットや携帯の普及に伴い、今では情報を上手に発信する能力や、 @kenichiaizawa @sugaki
  • 続き)ストーカー被害などを避ける為プライバシーを守りながら発信する能力、機密情報を漏洩しない発信能力、情報をキャッチボールする能力等、広い意味での「発信能力」も要求される様になった。つまり受け手教育だけでなく送り手教育も必要なのです。 @kenichiaizawa @sugaki
@kenichiaizawa@two_brain@sugakiによるTwitterまとめ

引用長すぎるのでフォントサイズを小さくしました。

さてさて、Twitterの140文字で論議しようと思うと難しく、こんなに長くなってしまいましたが、小林哲雄様の最後のまとめ2tweetに尽きるかなと思います。とはいえ、ちょっとまだ引っかかるところがあるんですね。まぁ、その引っかかるところは後回しに、會澤なりにいくつ過去のやり取りで見えてきたことを述べていきます。

情報発信力の増大と伴わない能力

携帯電話の普及は目をみはるばかりで、高校生ともなれば持っていない子の方が少ない。會澤のように皆に持て持てといわれながらも持っていなかった偏屈と、経済的に持つことができない人以外、みんな持っている感じですねぇ。

さて、携帯電話では当初情報を受信することが目的だった人も、次第に携帯ブログのような発信能力に目覚めていろんな情報を発信することができるようになりました。Twitterで事件現場の実況なども行われたことがありましたね。もちろん、善意の情報であったと思います。携帯電話の写真・動画撮影機能も充実し、マスゴミが決定的影像として携帯電話での写真・動画を放送するようになったりしています。

ところが、誰でもどこでもは時として「なんでも」につながることがあります。これは実は怖い。つい最近も、自分のバイクでの暴走行為を動画サイトに掲載し、逮捕された馬鹿たれがおりました。そんな馬鹿ばっかりではなくとも、2012年地球滅亡説を小学生の姪が本気で心配していたり、誤った情報にマスゴミが振り廻されたUFO騒ぎ。上げていけばいくらでもあります。そして何を隠そう、會澤の中では日本ITが生んだ最大の恥部。某chがダウンしただの、賠償金がどうのという話も、元を正せば無責任な発言に端を発したこと。事の次第は確証を持ったものではなかったにもかかわらず、話が話を呼び、おもしろ半分が感情論に火をつけ、国民感情を激化させた。馬鹿な話です。

馬鹿な話、で終わればいいのですが、上記引用にもあるとおり「松本サリン事件」他、えん罪事件の数々は、公機関ならずとも私たちのうわさ話すらも情報の取捨選択を誤ると大事件になることを示しています。

個人情報の発信力は、(このブログもまさにそうですが)増大しています。しかし、発進力の増大に伴って発信能力が上がっているかというと、それは極めて疑問形です。

発信することはできる。しかし、何を発信し、何を発信すべきでないかの区別をつけることを教わっていない。未成年が、「俺(私)の自由だろ!」と啖呵を切るのは、間違っています。未成年においては、保護者のもとの自由であるし、青年においても法のもとの自由です。自分がやりたいと思ったから、大麻に手を出した。「俺の自由だろ」これは通用しないのと同じです。ところが、そういう理屈を教えられず、勝手気ままが自由と勘違いしている大人も子供もなんと多いことか。そして、知らなかったでは済まされなくなってから後悔することになるのです。

物事には発信してはいけない情報もあるのだ。これは誰が教えるのでしょう。実は誰も教えてはくれないのです。

受信情報の増大と、伴わない取捨選択能力

逆もまたしかりで、何が正しくて、何がウソなのか。自分自身の判断基準を持たない人が多くなっているような気がしてなりません。「自分自身の判断基準」という言い方をしました。これ重要です。これが思想・信教の自由につながるからです。

【空いているバスの優先座席に座る】これは正しい行為か、間違っている行為か。これはたぶん正解がない問いです。ところが…

  1. 次のバス停で老人がたくさん乗ってくるかも知れないから、優先座席は空けておいた方が良い。
  2. 空いているのだから、座ってもいい(安全上も)。乗ってきたら変わればいい。
  3. 優先座席なんて認めない。俺は空いていれば座る。
  4. どうでも良い。関係ない。

「自分自身の判断基準」でモノを言っているのは、1.2.3.です。それぞれ、「座るべきでない」「座ってもいい」と意見は分かれていますが、判断基準でものを言っています。これは、間違っているとか正しいではなくその人の答えです。

ところが、4.はその人の答えにはなっていません。判断することを放棄しているんですね。判断を放棄するということは、流されるということです。極論をいえば、「日本刷新党」が衆議院・参議院で圧倒的多数をとる勢いである。「日本刷新党」は対立を続ける北朝鮮ならびに韓国を属国と宣言して国民総徴収制度を引き、日韓戦争によって国内需要を喚起しようというマニフェストを掲げている。その選挙で、投票権を放棄して遊んでいる。というようなものです。選挙のたびに會澤が書き込む台詞ですが「棄権はどっちが勝つか分からないのに、勝者に対して白紙委任状を出すようなものだ」これ危ないです。

そんな人が圧倒的だよとはいいませんが、「関係ない」「どっちでもいい」と言う台詞が頻繁に聞かれるのも事実です。

情報はどんどん増える。全てを信じて済むような一方的な情報というのは、少なくとも日本にはないと思って良いでしょう。情報の中には、相反するものが多い。その中のどれを選択し、どれを捨てるか。これはまさに「個人の判断基準」があるかないかにかかります。ある人が正しいといっているから、正しいという判断をする。これは遠巻きに宗教選択の自由につながります。會澤が言っていることが100%正しいと思って下さる方がいたら、お布施を下さい。會澤教を立ち上げます。

しかし、著名人で博識なAさんが、なんか自分の中で間違っているのではないかと思うことを言っている。しかし、Aさんの言うことだから正しいだろう。これは盲信と言います。「個人の判断基準」を放棄して、「Aさんの判断基準」を自分のものとして従うわけです(暗にオウム信者を想定しています:あえて書きます)。だから悪いとは會澤はいいません。しかし、その人の答えに身を任すことは自分自身を放棄しているのだということも忘れないで欲しいと思います。

若干横道にそれました。sugakiさんも上記引用中で話をして下さっていますが、いろんな情報を突き合わせる。そして、「自分自身の判断基準」で正邪を決める。決めたからにはそこに責任を持つ。この姿勢が必要になります。

インターネットは匿名の世界であり、政治・政府は介入すべきではない。これは會澤の持論です。しかし、自分の意見を述べる以上、匿名であろうとなかろうと発言・情報発信には責任を負うべきである。これもまた會澤の持論です。根本的には曲げる気はありません。そしてこれらを誰が教えてくれるのか。実はこれも誰も教えてくれないのです。

長くなりました。いったん仕切り直しますが、言い足りないのでその2に続きます。

tweethis

ホントはね – 奥村初音

ホントはね(DVD付)

高校卒業を機に「奥村初音」から、「初音」にアーティスト名を変えております。彼女自身が作詞しております。大したものです。會澤はこんな素直な高校生じゃなかった。本当のことを口にしたり認めたりするのは難しい。

自分をウソツキって認めることはムズカシイ。

「大丈夫」 は便利な言葉
いつの間にか 私は嘘つきになった…

「君は強いね」 と あなたは言うけれど
書きかけのメール 言えない本音

期待 理想 押し付けて
オトナのフリした正義たち
白か 黒か わからない
曖昧で 意地悪な 現実の世界
「大丈夫」 は便利な言葉
いつの間にか 私は嘘つきになった
「大丈夫?」 と聞かれるたび
いつの間にか 笑顔も忘れてた
ひとりきり 彷徨いながら
ホントはね 強がってるの

なにをするために ここにいるんだっけ
気がつけば今日も 消えてく私

計算 理屈 大嫌い
ありきたりの言葉 いらないのに
敵か 味方か わからない
やさしくて 意地悪な 現実の世界
「大丈夫」 は便利な言葉
傷つくのが怖くて 嘘つきになった
胸がきしむ 音にさえも
気づかなくて 泣くことも忘れてた
傷みとか 隠しながら
交差点 歩いている

「大丈夫」 は便利な言葉
いつの間にか 私は嘘つきになった
「大丈夫?」 と聞かれるたび
いつの間にか 笑顔も忘れてた
ひとりきり 彷徨いながら
ホントはね 強がってるの

最近、Twitterでも自分というものについてつぶやくことが多くなりました。完璧じゃないし、悩みも欲もある。それを全部ひっくるめて自分という括りで感じる。彼女の歌詞中には、そんな匂いがあります。不思議ですね。

彼女の所属がエイベックスということで、「初音」に変わってからエレクトリックなサウンドが強くなってきているのが気になりますが、本来弾き語りスタイルがに合いそうなYUIっぽい子です。エイベックスは、ちょっとプロモーション失敗が目立つので、事務所の都合で才能壊さないで欲しいなぁと思いますね。

本当に「大丈夫」って便利な言葉ですね。自分にも相手にもそして他人にもね。みんな本当に「大丈夫」なんだろうか。會澤は「大丈夫」とは言えないですよ。以前は言い続けてきたかな。高校生の頃、あんまり自分の事も他人のことにも興味を持てませんでした。だから、大丈夫なんていうタイミングもなかった。大丈夫って相手や自分を思いやるというか、関心を持ったときに出る言葉。ホントは大丈夫じゃないけど、うん、大丈夫。そんな風に強がる気持ち。

この中にも、友達との会話でメールが出て来ます。メールって便利だけど、Twitterっておもしろいと思うけど、やっぱり面と向かって話をしたい。現実が、理想とかけ離れている。だから絶望したり失望したりする。自分を傷つけて、もしかして相手も傷つけて。それでも「大丈夫」っていう彼女が愛おしくなってきます。

「伝えること」って難しい。「知る」ことも難しい。先日の投稿のように、ギリギリの今を生きていく。もともと矛盾を抱えた自分。それでも一人では生きていけないし、生きてこれなかった。これからもね。

数年前の曲になります。iTunesでも聞けますし購入できますので、どうぞ。「ホントはね – EP / 奥村初音

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「自分」と「他人」

以前にも、同様の投稿をしています。「about … 思考停止というけど停止するのは半分だけ」進み戻りつする体調の中で自意識と自分との境界線の危うさを何度か体験しました。

「理想」、「明日」、「今」、「現実」、「昨日」、「自分」、「他人」」の中で「今」が危うい。という表現をしました。実は「今」と「自分」はシンクロしているのではないかと思っています。會澤は、強い頭痛や目眩の中で、幻覚・幻聴の類を何度も見ています。最近でもありました。昨日の甥の話ではありませんが、時間というものを認識しているのは、まさに外にある何かではなく、内なる自分です。ところがこれが危うい。自分とは一体何ぞや。ここは、立ち止まって考えてみていい問いだと思うわけです。

自分とは何ぞや

デカルトを気取るつもりなど毛頭ありませんが、「cogito, ergo sum(我思うゆえに我あり)」これ本当ですかね。私が眠りについている間、私の存在を確証づけるものは何一つないことになります。内なる自分と外界とは接点を持っているのか?持っていないはずです。「私は眠っていて意識がない」自分以外の外なる世界から自分を見たとき、それは眠っている自分という物体を見ることになります。しかし、意識がないわけですからそれはできません。

煙に巻こうというつもりはありませんが、自分を認識しているのは自分だけ。他人は自分を見ている(存在している)と言ってくれるかも知れませんが、それは伝聞でしかありません。自意識とは、決して手に触れたり認識できたりしないものですよね。それは、他人から与えられるものでもなく、かつての機械的に人間を解明しようとする動きでは解明できないものだと思います。

もっと言ってしまえば、哲学でも、宗教でも解決できない命題「自分とは何か」であるように思うのです。

會澤は幻覚・幻聴の中で、周りを様々な人に取り囲まれ、その全てに対していいわけをしている自分に出逢いました。

これが、本来の自分なのかも。そう思いましたね。言い訳しているのは、自我の現れ方。内なる自分と、外界にある自分とのギャップを正当化しようとしている。自分。図にしてみようとしましたが、できません。これ、矛盾しているか発散しているんですよね。数学的にいえば、「問題として成立していないことを証明する」ことになります。ところが、いるんです。自分。

矛盾を抱えた存在

「私」は生まれる時代を選べず、場所を選べず、親を選べず、環境を選べずに生まれてきました。ただひとつ「死」への道程のみが広がっている(広がっているという表現は、「「理想」、「明日」、「今」、「現実」、「昨日」、「自分」、「他人」」を参照下さい)。こんな理不尽な話があるでしょうか。それでいて、今私たちは「自由」だという。

これまた政治に絡めて申し訳ありませんが、国際貢献。という言葉があります。そしてそれに対して違和感を口にする人もいます。同時代に生まれたから、互いに尊重し合いましょう。本来はそういうことだと思うのです。それが、金だけであるだの、銃器を使うなだの訳の分からんことを…愚痴でした。

向かっていくのは「死」あるのみ。そういわれたら、夢も希望もないではないか。いえいえ、そもそも自分とは何かすらわからぬものが、夢だの希望だの自分の存在の上に成り立つ議論できようものかいな?ではといって「自分は存在しない」というところからはスタートできない。我あるのです。「私は、考えているじゃないの。ってことはよ、私って存在があるってことの証明じゃないの」といったわけです。

いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。

第二十 有時 から2010年3月5日に引用

引用は、道元禅師の「正法眼蔵」有時の冒頭です。無理矢理會澤風に現代語訳すると、「まぁ、存在とか時間とかいうけど、時間はもうここに存在するわけじゃん。存在しているっていうのは時間があるからじゃん。意味ないってことぉ」(まずい、仏教界を敵に回したらどうしよう)。同様に、「今」も「私」も分けて考えることはできないし、そもそも分かちがたい存在であるってことですね。ちょっとニュアンスが、デカルトと違ってきます。小見出しは「矛盾を抱えた」としましたが、そもそも自分という存在自体が矛盾なのではないか。意味なきことなのではないかと思うわけです。

では、「他人」とはなにか

ここはですね、會澤の中でもまったく分からないので、むしろ教えて頂きたい。

自分というものを疑ってかかっているわけです。會澤とは本当に存在しているのか。自分はここにいるように感じている「だけ」かも知れない。いや、感じている「主体」すら怪しい。では、その怪しい存在の會澤から見て「他人」を定義せよというのはなんともはや難しい。定義でなくともいいのです。私と同じ怪しげな存在であるのか、それとも會澤とは違い確固たる存在であるのか。「坂口安吾 意識と時間との関係」恐れ多くも郷土の友として名を上げさせてもらいましたが、坂口安吾も同じように存在を思慮しています。しかし、そこにも「他人」は出てこないのです。安吾は強い人ですから、論じきっていますが、私には矛盾に思えます。

私はあなたという存在を信じない。などというと、ぶん殴られそうですし、ましてインターネットのブログ上。存在の危うさは頂点かも知れません。過去歴代の識者をもってして、計り知れぬという自我。あなたもそれを持っていますか?という問いかけは合っても言いように思うのですな。

量子論的自我論

造語ですからね。調べないように。

存在は確率的に未来に向かって開いており、ひとつの収束点に向かって戻ることなく進行する。これをもって時間の定義とする。

會澤的にはこれが人生というか、生き方の方程式だと思っているわけです。最終的には「死」という収束点を持っている。しかし、未来というのは開いている(もしくは発散している)。つまりいかなる経路も取り得るわけです。最終目的地を「死」に置いた場合、そこにあるのは運命論的存在でしかなくなります。會澤は幻覚・幻聴の中で、自分自身に対して言い訳をくり返していました。「である」はずなのにならなかった「理由」。「べきである」なのにならなかった「理由」。會澤が、カウンセラーと話をする中で「あなたの思考の【癖】」と断じられたのは、この「である」「べきである」的考え方。

そして、危険回避的思考が優先するというもう一つの癖。全てが「うつ」というものに直結しているわけではありませんが、「うつ」になって「死にたい」などと思ったりTwitterに書き込んだりしたのは、その時の目的地が「死」という選択肢しかないと思ったからだと思います。しかし、目的地をもっとずっと手前に引き込んだ場合、量子論とニュートン力学の関係のように、近似的に成立する存在が得られるのではないか。存在証明が得られなくとも、絶望せずに済みそうだな。という匂いを感じてます。確証じゃないですけどね。

存在と時間が分けられないのと同様に、自分と自我・自己欲・自己愛などとは不可離。そもそも存在そのものが時間とともに移ろうのだから、目の前のことに目標を定めて一歩をしたためましょう。…格好いいなぁ俺。

そして全然できないのも俺。両方俺で認めましょう。なんてファジーな結論。っていうか、結論になってないしィ。

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「理想」、「明日」、「今」、「現実」、「昨日」、「自分」、「他人」

このブログは辞書であるつもりはありませんので、それぞれの「言葉」としての意味は調べて下さい。

「理想」=「明日」、「現実」=「昨日」という図式は成り立つのでしょうか?・・明日にも現実を持ち込むわけだから、違う気もするけど、昨日=現実、は何となく納得できるかも・・

このtweetからヒントをもらいました。今の時点で會澤の頭の中にそれぞれの定義は漠然としています。しかし、書き綴っている中で鮮明になったり、不鮮明になったりするので、そこはご了承の程。

3つのカテゴリに分けましょう。【「理想」・「現実」】【「昨日」・「今」・「明日」】【「自分」・「他人」】。

「理想」・「現実」

常々、「努力したものは報われる」という言葉が嫌いだというのは、このブログで何度も書いてきました。あたかも、「努力した」故に「報われる」または、「努力した」ら常に「報われる」のように使われることが多く、それは違う。と言ってきました。會澤にいわせると、「努力は報われることの必要条件だ」となります。報われたいと思えば、努力は不可欠だけど、だからといって報われるとは限らないよ。というチョット夢をぶっ壊すような言い方ですが、それが現実です。

理想というのは、いくらでも思い描くことができる。ところが現実はそうはいかない。私直面してますよ。もちろんあなたも直面しているはずです。

では、現実を直視して、理想はどうでも良いか。これもまた大きな間違い(間違いではないかもしれんな)だと會澤思うわけですよ。目指すべきもの。そこが明確になっていないと、流されていくだけになってしまいます。不思議な事に、これを「自由」と勘違いしている人がいかに多いか。これは自由ではなく、ただ目的がなく彷徨っているだけ。

理想ってのは、目指すもの。さっき會澤は、努力したからといって必ずしも報われない。と言ったじゃないか。そう思った人いるんじゃないでしょうか。その通りです。理想は自分が目指すべき目的地です。そこにたどり着けるかどうかは分かりませんが、理想は目指す場所であることに変わりません。それすら見失って彷徨っている人たちは、自分の殻の中に閉じこもって、小さなコミュニティーを作りがちです。やけに排他的だったりします。

ただし、怖いのは理想が到達す「べき」目標になってしまうことですかね。政治に絡めてしまうと、嫌がる人がいるかも知れませんが、政党と議員の関係。政治と選挙の関係なんかが、ちょっとまずい方向にいっている例かも知れませんね。本来、考えを同じくする者が集まって政党ができました。しかし、現在はまず政党在りし。議員は駒になってしまっている可能性があります。そして、選挙。これが政治の目的になってしまってはまるで話になりません。しかし残念ながら、そっちの方が現実ですね。望む物ではない。でも、ここで理想を投げ出してしまっては、漂流者になってしまいます。目標を語ることが当たり前になって欲しいのですが、大きな目標を口にするとわらいものになったりするのは困りものです。

「昨日」・「今」・「明日」

これは不思議だと思いませんか。因果律って言葉聞いたことがあります?

因果律とは、いかなる事象も時間的に過去に起こった事を原因として起こるとする考え方である。

因果性 – Wikipedia から2010年3月4日に引用

有名なアインシュタインの時空という考え方にも時間軸が登場します。空間といったとき、私たちはxyzの直行座標(正確には直行である必用はない)を持つ3次元というのを思い浮かべます。そこに時間というもう一つのベクトルを付け加えて、時空間などと呼びます。ところがこの時間というベクトル。なぜだかひとつの方向しか持つことができません。無理にベクトルの方向を変えるような定義を作ろうとすると、タキオンという光速度を越える粒子が出て来たりして、だんだんSFの方向に向かいます。

少なくとも科学的には、昨日が明日のあとからやってくることはないのです。何でしょうね。私不思議に感じます。

私には、2歳8ヶ月になる甥がいます。彼は、すでに自分の身に起こったことが現在の事象なのか、過去の事象なのか認識する能力を備えています。ただし、彼にとって過去は全て昨日です。少なくとも言葉の上では、彼の過去は全て「昨日」という言葉で集約されます。こっちは時々混乱しますけどね。「昨日、お魚食べた」「あれ、昨日はお肉じゃなかったっけ?」「うん」。彼の中では、過去がみんな昨日なんですね。

これが、認識のうえなのか、単純に言葉として「一昨日」とか、何日前。と言うのがインプットされていないのなら、それはそれなのですが、彼の言動を聞いていると、昨日という一言の中に、すでに少し前の昨日。とか、遠い昨日。と言うのが存在しているようなのです。甥の成長を見るにつけ、人間の認識する時間軸というのが、非常に早い段階で生成されるんだなぁというのが分かります。蛇足ですが、少し前までは、お昼寝して起きたら、お昼寝前は昨日でした。ところが、最近そうではないらしいのです。一日のサイクルが、睡眠という記憶が途切れることでワンサイクル回るのではなく、一日という決まったサイクルで回っているのだということがどうも生成されているようなのです。私は、とってもおもしろいなぁと思います。

明日は必ず昨日になる。昨日が明日になることはない。これを踏まえて、ひとつ前の理想と現実を当てはめてみると。明日が理想に相当します。ところが、先ほども書いた通り、理想は必ず現実になるとは限りません。現実は「今」と考えて良いでしょうか。私は、過去と今をひっくるめて現実とした方がいいと思います。あとで書きますが、「今」という存在がとっても危ういものだからというのもあるんですけどね。

しかし、現実と言ったとき。それは過去と今を指すことは間違っていないと思うんです。現実は確定した話。と言うことは過去を指します。現実というと「今」を思い浮かべる人も多いかも知れませんが、屁理屈に聞こえるかも知れませんが、過去と未来の境界線を「今」と言うだけで、「今」と言葉にした時点で「今」は「過去」になります。そんな危うい存在だと思っているのです。

人間の思考ってヤツは、全て過去に蓄積されていきます。今、こう思う。と、書いた時点でその記述は過去の記述になります。甥の「今」は、連続して続いている記憶の時間を指すかも知れません。私たちもそう考えることが多いと思います。思ったことはその時点で思ったことでほんのコンマ数秒前に起こったことです。私たちは本当に今に生きているんでしょうか。

明日が理想だとしてもかまわないと思います。理想ってものはそういうものですから、明日は未来と言い換えた方が良いのかな。ところがやっかいなことにそれはイコールで結べない。もしかしたら、ある人にとってイコールで結ばれるのかも知れない。また別の人には、「≠」で結ばれる。さらに、「≅」かもしれませんね。ファジーな関係でイコールでも、ノットイコールでもない。それこそ0〜1のいずれかの点を取る。無限数の世界に突入します。

ついてきてますか?それが、「今」という境界線を挟んで一瞬で収束するんです。これが會澤スゲェおもしろいと思うんです。無限(ほんとは無限という定義はよろしくない)の未来から「今」というあるのかないのか分からない境界線を越えるとひとつの現実(過去)に収束する。確定した現実(過去)は決して未来には戻らない。少なくとも今の時点で、これだけが真実。誰にとっても同じ。未来はブヮ〜っと広がっているのに、瞬時に収束して現実になる。

さらに、個人という所に限定すると、広がった未来の先には【死】というものがこれまた収束しているんです。「理想」=「明日」、「現実」=「昨日」という図式は成り立つのでしょうか?・・明日にも現実を持ち込むわけだから、違う気もするけど、昨日=現実、は何となく納得できるかも・・最初に引用したこのtweet正しくもあり、ちょっと違うかも知れないですね。ところが100%正しいこともあり得るからやっかい。

「自分」・「他人」

最初のtweetになかった2つの単語を並べました。何でしょう。ここからは、會澤の入院して現実と非現実の間で感じたことなんです。ここが一番長くなりそうですので(ただでさえ長くなってしまっているのに)、仕切り直しましょう。

tweethis

Kindle想像以上!

KindleDX

画面にこれからすることが指示されていますね。「充電してください。右上のパワースライドスイッチを操作してください。」え〜この段階で、表面につけられている保護フィルムにこれが印刷されているのだと疑りませんでした。ところが、フィルムをはがしてもこの表示が持続しています。ここで始めて気が付いたのです。これが、電子ペーパーだ!

感動でした。携帯で撮ったので、大して鮮明な画像ではありませんが、文字はくっきりしゃっきりリフレッシュ!(何のことだか分かった人コメントください)。感動しました。カルチャーショックってヤツですか。これはおもちゃではない。実用品だと直感しましたね。そして、知識がいかに経験に劣るか。それを実感しました。もう戻れません。これを入れて歩くしゃんとしたケースが欲しいところです。

PDFの表示もOK

日本語に対応していないとはいえ、PDFの表示はまったく問題なし。市販の本をということになるとちょっと問題になるけど、この中に何十ものPDFが難なく入ることを考えると驚異的。無論入れ換えも簡単。単純にUSBと接続すればいい。電源も、100V〜220Vまで対応で、日本のコンセントタイプが付属してきた。ただしその根本は何とUSBになっているので、USBtoコンセントの市販品も十分に使える。なおさらヤバイ。

表示されているのは、オライリー・ジャパンのPDF価格も安いし。Perlがらみの本も電子ブックスタイルで購入してしまおうか迷っている。いや、ほんとにそう思っているほど。

USBモードの画面
KindleUSBmode on FinderKindleUSBmode PDF挿入後

KindleをUSBにつなぐ(電源ポート兼用)と、一番左の画面になります。MacではUSBストレージとして認識します(中画面)。PDFはFinderのDrag&Dropで簡単(右画面)。あんまりあっさりできるので拍子抜けです。

ちなみにセルフパワーのUSBハブならば充電可能。私はこの状態でフル充電までもっていきました。約1時間ぐらいでフル充電になりましたね。

サクッと使い勝手。

オライリー・ジャパンの本は、明朝体で書かれています。フォントの大きさを変える機能は、Kindleフォーマットなら可能なのですが、PDFでは不可です。明朝体よりもゴシックの方が見やすいかな。これはオライリーに伝えます。

で、いろいろ見ていったら、日本語PDFは表示できない旨の表記が…えっ?どいこと。手元にあったPDFを全部ぶち込んでみました。化けてます。タイトルが…中身で化けているのは見つかりません。ただし検索機能は軒並みアウトです。英文を含んだ日本語PDFでも英語部分を検索できないようです。全部見たわけではありませんが。でも内容が見られるので、良しとしましょう。メニューに表示される日本語が全て化けてますのでこの部分対応してないですね。

UIに関しては、想像通り改善の余地あり。下部にあるアルファベットキーで検索を担当するわけですが、使ったことないッス。他には、全て右側にボタンがならびます。上から、

  1. HOME
  2. PREV PAGE
  3. NEXT PAGE(これが一番大きい)
  4. MENU
  5. 5WAY KEY(カーソルキーの役割をします)
  6. BACK

直感的に操作できるか?BACKキーの役割がいまいちピンときません。使ってみると分かるのですが、MENUの階層を下るというような機能専用に使います。基本的には、Documentsフォルダに日本語のPDFを突っ込んでやれば、読めます。青空文庫をPDFにしてくれる「青空キンドル」というとっても素敵なサービスもあります。時々エラーが出ますけど…

日本語フォントをインストールしてしまうというハックもあるそうですが、私はしませんよ(たぶん)。

最大の特徴であり、最大の弱点はやはりメディアが電子ペーパーであるということでしょうね。私は最初から電子ブック(PDF )ビューアーとしてしか見ていませんので気になりませんが、文書をめくるというより、明らかに「書き換わる」という動きをします。ここが、UIを設計する上でつらいところ。

原理的には、オセロの駒をひっくり返していくようなものですから、部分的な書き換えでも結構まだるっこく感じる部分がある。ドキュメントを選択するとき、上記、(5)の5WAY KEYを使うのですが、カーソルとアンダーラインを上下させるときに、「はい、これ消しますぅ。んで、これ書きますぅ」ってな具合の動作になってしまいます。これは、厳しい。たくさんのドキュメントの中から選択するときに、なかなか大変。ページをめくっていって、5WAY KEYで選択して、5WAY KEYをプッシュ。これで開けるんですね。

精一杯のところで、一度開いて、閉じたドキュメントは自動的にホームページの最初のページに置いてくれます。

使い勝手の悪さを超越した見やすさ

こればっかりは見て頂くしかないですね。暗闇では自己発光する機能がないから見ることができないとか、ページの書き換えにイライラするとか、それはあるんです。間違いないです。ところが、いったん小説とかを(青空文庫など)を読み始めると、本当の本以上に読みやすいんではなかろうかという、コントラストの効いたシャープなラインが目に優しい。

言葉でいっても分からないです。會澤が、最初フィルムに印刷されていたと思った操作説明のように、あたかも印刷物のように見えるのはちょっとすごすぎです。写真は拡大表示させられますので、見て下さい。でも、伝わるかどうかわかんないなぁ。

少なくとも静止画像を見るのは液晶よりも疲れません。これで動画は見ることができませんし、MP3ファイルを入れておくと再生してくれるのですが、そんな機能もいらないなぁ。当座、PDFで凌ぎますが、日本語化されたら嬉しいなぁ。で、3G回線を使って、Kindle・Storeに接続するのだが、その通信料は無料。もちろん書籍を購入すれば有料になりますが、docomo回線を使っているという噂。噂ね。

Kindleにドキュメントを送って、変換してもらうという手もあるのだけど、容量は大きくなるものの画像ファイルの形状で書きだし、まとめてPDFにしてしまうという方が簡単。上手いこと使えば便利ですよ。もちろん、テキストファイルなら、PDFでかき出せばいいだけのこと。楽勝です。

しばらく遊ばせてもらいます。

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自立

原口総務大臣のtweet引用。

総務行政に関して昨日、立ち上げていただいた民主党の1期の国会議員を対象にした勉強会について記事が配信されています。私は民主党はリナックス型の政党であるべきと考えて派閥を否定してきました。名前も大事だなと思います。

私が目指す「リナックス型」の理想の政党。これまでのピラミッド型の依存と分配の政治の対極。全ての人が平等で自由に出入りできる。オープン・ソースで情報や利益を囲いこまない。自立と創造、協働のネットワーク型政党を目指したいと思います。ツィッターのコミュニケーション形態に似ているかも。

氏のtweetは理想を語ることが多い。現実と鑑みて疑問符がつくことも多いが、上記理想は民主党として目指すべきもの。成り立ちからして、烏合の衆でしたから、現時点で派閥・グループの類が存在するのは事実かと思う。

そしてそれを打開すべきは、政党から政治家が自立することに他ならない。

原口総務大臣の言を進めれば、議員は政党からも自立すべきというのが、會澤の根源的な理想。政党という枠組みすらも越え、各個人で議案に対して意見を言う。議員立法も、自ら政党などという枠組みを超えて賛同者を募り、考えを同じくするもので提出する。

が、しかし政党政治が不完全ながらも機能している現時点で、それを望むべくはない。故に、原口総務大臣の言は心に響いた。大いに賛同させて頂く。

抵抗勢力もあるであろうし、古い考えの政治が前をふさぐであろうこと想像に難くないが、前進して頂きたい。

微力ながら、この記事において賛意を表し、氏の言を広める一翼を担いたい。他のリソースも用いて。

tweethis

自己嫌悪

「死にたい」Twitterでつぶやいてしまいました。今日はそれぐらいきつかった。そして今、自己嫌悪に陥っています。が、何とか(スポック風に)論理的に考えられていますので、まずは良しとしておきます。

「空気を読んでいる」人も、必死で存在証明をしているか、誰かを他人事にする事によってちっぽけな自我を満足させようとしている点においては同じ事ですね。どちらにしろ、自分の内側の事です。

自らを警戒する。良い言葉だと思います。自分を信用はするが、信頼はしない。そういった自己を見つめる眼こそ、宗教の本質だと思うのですが、どちらかと言えば、成績が良くなるようにお願いするが宗教になっているのが日本のようです。

お経様に「田あれば田を憂う。宅あれば宅を憂う。田なければまた憂えて田あらんと欲う。宅なければまた憂えて宅あらんと欲う」という言葉があります。物事の有る無しではなく、受け取る側の私に満足がなければ不足しかありませんよね。いつの時代も。

い・痛い…グゥの音も出ません。

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